ライデンの前を早足で歩きながら、軽く振り返って声を掛ける。 「乗馬は久しぶりか?」 「ええ、かなり・・・・・・でも、多分大丈夫だと思います」 (嘘だな。大丈夫なわけはない) そう解っていても、口には出さない。 昔から、ライデンにはかなり無茶なことをさせてきた。従順な性格を逆手にとって、家臣に悪戯を仕掛けさせたり、誠実さを試す様な無思慮な願いをしたり。 今思えば、非難されてもおかしくない数々の事。 だが、彼女は決して「出来ない」とは言わなかった。これからも、きっとそうだ。 そして再び今日、図らずも無謀なことをさせようとしている。 乗馬では、馬との相性というものがある。初対面の馬で、いきなり遠乗りというのはどう考えても無理なのだ。衣装合わせを済ませて部屋を出る、つい先刻まで、馬のことなど完全に頭から抜け落ちていた。 一昨日に遠出の計画を聞かされてから、すぐにライデンの馬の手配に思い至らなかった自分に腹が立つ。新月の事など、もう言い訳にもならない。 おまけに、当の本人が自分に不安を打ち明けず、平静を装っている事にも不満を感じる。 (私には「心を隠すな」と約束させておきながら、おまえがそんな態度では不公平ではないか) いや、これは八つ当たりだ。 必要以上にライデンに甘えようとしている自身を叱咤する。 最良の方法は、自分の愛馬にライデンを乗せること。器量は良いし、脚力もあるので乗り手に負担をかけない。 だが、慎み深い彼女のことだ、きっと遠慮して辞退してしまうに違いない。 さて、本人をどう言いくるめたら良いか・・・・・・。 部屋を出る頃から、急に雰囲気が変わった。 子供の頃から感情をあまり外に出さない人だったが、ますます磨きがかかって難解だ。 昔のように確信はないが、何か思う所があって、不機嫌になった様に思う。 何が不興を買ったのだろう? 装飾品の事だろうか、それとも髪を伸ばせと言われて聴き入れなかった事? 今日は目一杯気晴らしをしてもらおうと思っていたのに、こんな事ではせっかくの休日がふいになってしまう。何が理由かは分からないが、とりあえず謝罪して機嫌を直してもらおう。 付き従いながら、王の背中に視線が吸い寄せられてしまう。護衛役として、いつも通り周囲を気遣うべきなのに、こんな事ではいけない。 ・・・・・・等々あれこれ考えているうちに、馬繋場に着いてしまった。 王に続いて厩舎に入ろうとした所で、唐突に「ここで待て」と言い渡される。 ライデンは、大股で歩き去っていくロインズを見送りながら戸惑いを隠せない。 これはもう、自分に怒っているようにしか見えない。 (近頃、髪の毛のことを何度も言われているが、素気なく断りすぎたのかも知れない) 彼女の気持ちは次第に落ち込んでいくのだった。 王の馬は馬装も済み、手綱を渡されるだけとなっていた。 愛馬はロインズと対面すると顔を近づけて甘える仕草をする。その額を優しくなで、彼は漆黒の瞳をのぞき込み密かに語りかける。 「ライデンは久々の乗馬なのだ。配慮して乗せてやってくれないか」 馬はまるで人語を解したかの様に、短く嘶いた。 厩舎を出た後、突っ立って待つ側近に、馬を引き渡す。 「ライデン、まず私の馬に乗って見せろ」 言ってしまった後で、彼女の不安げな瞳と出会う。もう少し他に言い様があったはずだと、すぐに後悔した。いくらなんでも気持ちに余裕がなさすぎだ。 すごすごと、馬を引き連れていく側近の姿を見て、ますます自分が情けなくなる。 側についてやりたい気持ちを抑え、柵の外側で踏みとどまり注視する。 ライデンは馬の肩を撫でながら声を掛け、挨拶を交わしている。馬具を調整した後に、騎乗。なかなか手際がよい。 腹帯を体に合わせて、馬に話しかけている姿を眺めながら、ふと遠い昔のことを思い出しかける。 疾走する馬と、それを操る少女の、揺れる金の長い髪。 脳裏によみがえる風景。あれはいつだったか、園遊会で馬術の競技会で・・・・・・。 軽快な蹄の音で我に返る。馴らしを終え、少し早歩から、速度の調節、制止、方向転換と見事に乗りこなしている。馬との相性も良い様だ。 このまま乗せてしまえば、今日の遠乗りも大丈夫だろう。 安堵し、自分の馬を選ぶために厩舎に再び足を向ける。 と、何やら人も馬も騒がしく、見ると、二人がかりで一頭の馬を馬装させている。 事情を聞けば、ライデンが早朝から此処に来てこの馬を選び、蹄や馬体の手入れをしていたと。それからこの馬が元々は軍馬で、何人もの兵を落馬させたとも。 気性の荒い馬だ。ライデンはなぜ、このような馬を選ぶのだ。腹立たしさと同時に、何やら征服欲をかき立てられ、自ら頭絡をつける事にする。 馬からこのような挑戦的な瞳を向けられたのは、はじめてかも知れない。だか、こちらとて負けたことはない。しばし睨み合う。 本当に彼女がこの馬に乗るつもりなら、これだけは言っておかねばなるまい。 「お前、万が一でも私のライデンを振り落としてみろ、今夜の晩餐になると思え」 低く威厳漂う王の一声に、馬はびくりと体を震わせた。 自分の乗るはずだった馬を引いて王が馬繋場に姿を現したので、側近は慌てて馬から降り、戻ってきた。 「すみません。久々なので、つい夢中になってしまいました」 彼女は少し頬を染め、本当に申し訳なさそうに王に謝罪した。 馬と並んで目の前に立つライデンの姿。 ロインズは唐突に思い出す。 「おまえ、馬術競技は得意か?」 「はい、何か?」 間違いない。園遊会で馬場馬術を披露した少女。あれは登城する以前のライデンだ。 そんな彼女に馬の斡旋など必要はない。 取り越し苦労。 言ってしまえばそれだけのことだが、あとに残る疲労感は半端ではない。 気持ちの切り替えに手間取っていると、気付かないうちに愛馬が隣にいて、まるで慰める様に鼻を寄せてきた。 馬場では側近が先程の軍馬を輪形、波形と自在に乗りこなしている。 二言三言、ライデンと会話を交わすだけで分かる事だった。 心の内を打ち明けることにも、まだ慣れていないのだと自覚する。 今日一日彼女と過ごせば、何かを変える事が出来るだろうか? ロインズにはまだ、漠然とした予感しかなかった。 白狼の丘を下る途中、弧を描く緩やかな坂にさしかかる。 振り仰げば、朝陽を浴びて輝く城壁、美しい町並みと目に眩しい街路樹の緑。花は色鮮やかに咲き誇り、丘全体が活気に満ちあふれている。 これまで巡って来た、荒涼たる土地とはまるで違う。 王に追従して馬を走らせながら、眼下に広がる麦畑に心が躍る。 重苦しい心を抱え、パズル達とこの丘を登ったのが遠い昔の様に思える。 故郷に帰る。 願っても、叶わぬ事だと諦めていた。 まして、再び王子、いや王のもとに戻ることなどあり得ないことだった。 孤独と後悔の7年間。悔恨と私怨がない交ぜになって心の奥底に鬱積し、永遠に消えないと思っていた。なのに、たった一言 (許せ) すべてが昇華されたわけではないが、大半が消し飛んだ。 そして、押しつけられたものではなく、今度こそ自らの意思で王の傍らに仕えようと決めた。すべてあの人の言う通りに。 ただ、未だに分からないのは (あの王子様は、君のこと) いくらなんでも、それはない。いや、ないはずだった。 王の側に戻って日が浅いうちは、多忙のあまりそんな事を思い出す余裕など無かったのだが、昨晩のことがあって何か身に迫るものを感じた。 (一つ目の秘密) 甘い響きを伴ったロインズの告白。直感的に、まずいと思った。これを聞いてしまったら後戻りできない予感が。だが秘密を共有すると言った手前、逃げるわけにも行かず、ロイナスのまるで見計らったかの様な合図に救われた。 「ロインズもああ見えて、あれだから。夜の訪問だし、念のため」と、意味不明な理屈を述べ、律儀に外で待っていてくれた彼にはとても感謝している。 『昨日の話の続き』をいつ切り出されるのかと、内心冷や冷やしている。 今日一日凌げば、無かったことに出来る・・・・かもしれない。いや、ぜひ、そうであって欲しいと思う。 規則正しい蹄の音を背後に聞きながら、ロインズは馬を進める。 できるなら覆面も取り去ってしまいたい所だが、この顔を外でさらすと厄介事が増えるのを、昔から身をもって知っている。 昔の出来事。 毒を呷った直後の一時期を除けば、ほぼ記憶は取り戻していたつもりだった。だが、あの時の少女とライデン、同一人物だと判らなかった。 園遊会の時、頬を染めて、はにかむようにお辞儀をした金の髪の少女と、寡黙に自分の後ろに控えていた従者。受けた印象がまるで違う。 (ちょっと待て) 記憶の糸をたぐり寄せる。 作り笑いではなく、本当の笑顔を見たのは、数えるほどしかなかったのではないか? それも、あの男と共に過ごした、ひと月余りの事ばかりが思い浮かぶ。あれは自分に向けられた笑顔ではなかった。 昨晩から、眠っていた感情の何もかもを一度に揺り起こされたようで、心の中がざわつく。 冷めた視点で自ら分析すると、「独占欲」に起因すると思われる。王の立場からすれば、何に対してもあってはならない感情だ。黒雷刀を持たせ、すぐ側に取り戻したというのに、自分は何処まで欲深いのだろう。 いつもなら、どんな情動も跡形なく消し去ってしまえるのだが、どうも上手くいかない。まるで子供に戻ってしまった様で、苛立ちが増すばかりだ。 ライデンは、先行するロインズの馬が次第に加速している事に気付き、不審に思っていた。心なしか、走り方も乱れている。 待合の時間にはまだ余裕がある。仮に遅れたとしても良いように、きちんと予定は組んであったはずだ。あまり無茶な走り方は、乗り手にも馬にも負担をかける。王に並走して声を掛けようとした時、路肩に幾人もの男達が立ち、籠で土砂を運んでいる姿が遠目に見えた。 何のために? はっと思い当たり、路上を見渡すと、馬車の深い轍の跡が幾筋も見えた。昨晩の雨で道がぬかるんでいて、彼らは湿地の悪路をならそうとしているのだ。 「お気を付け下さい!」 叫んだときには、すでに馬がぬかるみに足を踏み入れていた。泥が跳ね上がり、足並みが乱れる。 王の馬は速度が増していたため、より深みにはまってしまい、一瞬で均衡を崩した。 悲鳴の様な嘶き声をあげ、馬体が右へ大きく傾きかけた所へ、ライデンが素早く馬を滑り込ませる。すかさず、ロインズの手元から手綱の片端を取り上げて、何とか制動をかけた。 彼女は大きく息をついた後、王の顔をのぞき込んだ。 「大事ありませんか?」 「・・・・・・」 「ロインズ様?」 王は自失した様に虚ろな瞳のまま、気遣う側近の声にすぐに応えられなかった。 蹄の泥を落とすために、水場に隣接するバザールに寄ることにした。 馬を預け、世話を頼む。同じような依頼をする客が多いらしく、待たされそうだ。手間賃を増して順番を早くしてもらうことも出来たが、王は一言「待てばよい」と背を向けた。 王は時折、お忍びで城下の商業区や此処のバザールに足を運んでいる。 気晴らしはもちろんだが、穀物や塩の値段、作物の収穫具合を自分の目で確かめている。実務を兼ねての徘徊だ。 しかし、今日はいつも立ち回りそうな店には寄らず、雑貨や小間物屋ばかりを覗いていて、何やら挙動不審だ。 「これはどうだ?」としきりに、振り返ってくる。 どうだ? と聞かれても、何と答えて良いのか、彼女にはさっぱり分からない。 「どなたかへ、贈り物ですか?」 「・・・・・・」(おまえにだ) たった一言が言葉に出来ず、沈黙。 冗談を言うようになっても、まだ一方的で、ライデンとの距離は遠い。7年もの空白は容易には埋まらないのだ。 『贈り物』とは、相手の関心をこちらに向けさせる常套手段だが、よもや自分が誰かのために選ぶ日が来るとは、思いもよらなかった。落馬しかけて、頭を揺さぶられたか。心の余裕すらない。今出来ることは、何でもやっておきたい。 次の店には野の花や実、枝を使った様々な形のリースが並んでいた。 まさか花を贈られて断る女性は居ないだろう。良い印象が得られたら、その場で押しつける心積もりだ。 その一つを手に取り、ライデンの目の前にかざす。ローズマリーと鮮やかな色彩の小花を組み合わせたリース。レースの飾りで包まれ、一際目を引く。 「ああ、綺麗ですね。これは花嫁の誓いのリースですよ」 「・・・・・・」(まだ、贈れない) 王が手に取る品に、ライデンは少しも興味を示さない。おまけに振り返った時、視線がちらりと合ったかと思うと肩越しに目線が逸れてゆく。 考えれば当たり前のことだ。護衛役として、王に危険が及ばぬよう気を張っているのだから。 だが、ロインズには、もうその事すら不本意だった。 「もうよい。自分の身は自分で護る。お前はバザールの端で座って待っていろ」 静かだが有無を言わさぬ言葉を残し、王は止める間もなく雑踏へ消えてしまった。 こうなると、従者にはどうすることも出来ない。 不興の原因が何か、探るのにも、もう疲れてきた。 ライデンは王の指図に従って、雑踏から少し離れた石垣に腰掛けて待つ。 ここは人通りもなく、耳を澄ませば野鳥のさえずりが聞こえるほど静かだ。 今朝から、王は明らかにおかしい。 何かに怒っているかと思えば、心ここに有らずと言った風で注意散漫。まさか、あんな形で落馬しかけるなど、あり得ない事だった。なのに、何事もなかった様に(いささか落ち着きがないが)バザールを物色してまわっている。 表情は、あくまで覆面の間から見える範囲でしか分からなかったが、この豹変ぶりにライデンは覚えがあった。 聞こえよがしに、王子を悪し様に言う貴族達。そのただなかに、毅然として立つロインズ。彼は何の反論も反発もせず、謹厳な行いとその立ち居振る舞いだけで周囲を静かに制圧していった。その裏で、どれほど切歯し、多くの葛藤を抱えていきたかライデンは知っている。 心の内は決してみせず、慰めの言葉すら跳ね返す、かたくなな態度は、子供の頃と一つも変わらない。一人で考え、一人で解決し、一人で行動する。すべてが独断で。自分が居なかった7年間も、ずっとそうし続けて来たのだろう。 薄々は感じていた。秘密を抱え、何かに縛られて苦しんでいるのではないかと。 せめて、心の内を少しでも明かして貰えたなら、寄り添い支えることも出来るのだが。あるいは、さっさと「一つ目の秘密」を貰って心の距離を縮めるべきなのか・・・・・・。 今はただ、じっと待つしかない。 ロインズは「秘密を作らない」と、昨晩ようやく約束をくれたばかりなのだから。 さほど時間を置かず、王は戻ってきた。 「買い物はあまりしたことがなくて、お手伝いできず、申し訳ありません」 ライデンの言葉に、彼は自分を省みる。彼女が謝る必要などない。しかし、今は自分のことで手一杯で、返す言葉がなかった。 迷っている。 身体だけでなく、心もまだふわふわと浮遊しているようで、気持ちが定まらない。この手にある、銀細工の首飾りをどう渡したらよいのだろうか。 彼女が装飾品をあまり好まないのは知っている。すんなり受け取って貰える確信がなかった。身につけさせるためには、多少強引にでも、と考える。もはや手段を選ばない。 「目を閉じろ」 「は?」 突然、何を言い出すのか。何かの比喩だろうかと側近は目を瞬かせる。 王は立ったまま、座っているライデンの顎に右手をかけ上向かせ、左手で口元を覆っていた覆面を外すと、顔を寄せていった。 冴え冴えとした淡灰青色の瞳が、あり得ないほど近づいてくる。 「目を閉じろと言った」 異議を唱える間もない。 強制的に暗転。 額にかかる息と頬をかすめる暖かい感触。 「お待ちください。こんな冗談は」 やめて下さいと、消え入りそうな声で懇願する。だが、ロインズはその耳朶にこう囁く、 「いいから、黙れ。黙らないと、このままその口も塞ぐぞ」 いかに鈍い彼女でも、その言わんとする所は理解できる。 首の後ろに腕が回され、髪に指が触れる。息を詰めているのに、王が身に纏っている香気が鼻をくすぐる。平常心などあったものではない。顔から火がでそうだ。 さて、ロインズはと言えば、さっさと用件を済ませて、側近をじぃと間近で眺めていた。 かつて蜂蜜色だった髪の毛は、陽に焼けて所々赤毛になってしまい、艶やかさを失っている。男ならば気にも留めないことだが、女性であるライデンにそれを強いているのは、自分の独断意外にない。彼女が昔から、髪の毛に触れられるのを苦手としていることは承知している。短く切りそろえた髪を見るたび、心が痛む。くどいと言われても、気になるものは気になるのだ。 (償いの一歩目はこの髪をもとに戻すところからだな) 目を固く閉じ、頬を染めたライデンは、まるで苦行の様にずっと押し黙って、王の許しが出る時を待っている。実直な側近は、このまま何も言わなければ、いつまでもこの状態で待ち続けるだろう。 このまま腕の中に閉じ込めてしまおうかと、新たな悪戯心が湧いてきた所で、横からの熱い視線を感じた。 顔を向けると、 「あ、あ、あの、首飾りのお釣りを・・・・・・」 さっき買い物をした店の売り子が、真っ赤な顔をしながら釣り銭を差し出している。釣りを受け取らず立ち去った彼を、追いかけてきたらしい。 「う、う、馬の準備も出来ているそうです」 ロインズが黙って受け取ると、娘は厩の伝言を残し、脱兎の如く去っていった。 どうやら、途中からしっかり彼の所業を見られていたらしい。端から見れば、男同士二人連れ。果たして、どのような構図に見えていたことか。 後ろ姿を目で追っていくと、人混みをかき分けて走る先で、娘は「薔薇」とか「秘密」とか、意味不明のことを口走っている。 はて、薔薇は買っていないのだが。 振り返ると、自力で呪縛を解いたライデンが、首に掛けられた銀細工の首飾りを左手で握りしめていた。じっとうつむいたまま、動かない。多分、怒っているのだろう。 わざと色事の様にライデンを煽り立てて、実のところは首飾りをただ付けただけ。 ここまできわどくは無いものの、似た様な冗談はこれまでも幾度か繰り返してきた。いつもの様に、赤い顔をして彼女が抗議してくるのを待つ。 ところが今回は、いつまで待っても、ライデンは動かなかった。 (やりすぎたか) あまり出番のない「後悔の念」が頭をよぎる。 声を掛ける機会もすっかり逸してしまい、沈黙が次第に暗く重みを増してきた頃、側近が前触れもなく立ち上がった。 「陛下、待合に遅れますので。参りましょうか」 彼女はすたすたと、厩に向かって歩き始めた。 呆然と立ちすくむ間に、身体も心も置き去りにされてしまう。 立ち位置が逆転し、側近を追う羽目になった王は、とっさに頭の中で謝罪の言葉を十通りほど考え、そのうちの一つも口に出すことが出来なかった。 結局「ライデン」と名を呼び、呼び止めただけ。 彼女は歩みを止め、くるりとロインズに向き直った。 「確認のために申し上げておきます。私は、使命のためなら命を落とすことさえ厭いません。しかし、艶事や明らかに私情と思われるご命令には従わないことにいたします」 よろしいですか? と冷たい口調でロインズに釘を刺してきた。 初めて見たライデンの固い表情に、思いがけず胸を突かれる。脳裏によみがえるのは、かつてあの男に突き放された時の事。 そんなつもりではなかった。 もっと話をしていれば、こんな事にはならなかった。 すべて受け入れてもらえると甘えていた。 着実に登ってきた螺旋階段を踏み外して、下層まで落ちた感覚。 ライデンは苦しげに瞳を閉じて、口元に左手を当てたまま、ゆっくりと顔を伏せた。 また傷つけてしまった。 ロインズは心急く。彼女に何か言わなければと、気持ちだけはあるのだが、うまく肺に空気が入らず、息が詰まる。 離れていこうとするライデンの心をつなぎ止めたい一心で、昨晩と同じように右手をそっと引き寄せる。一瞬、振り払われるかも知れないと考えたが、それでも良いと思った。 彼女は肩をふるわせながら、しかし、その手を振り払うことはせず、くぐもった声でこういった。 「申し訳ありません、ロインズ様。・・・・・・やっと顔に出ましたね」 「!!」 驚きのあまり、逆にロインズが手を離しそうになる。 彼女が押し殺していた嗚咽は、一転して涼やかな笑声に変わる。 彼はまんまと担がれていたと悟り、口惜しさと、恥ずかしさで、今度こそ言葉を失う。王子としても、王としてもこんな扱いを、これまで受けたことがない。 「何を悩んでおられるのか、口に出来ないのであれば、せめて、それらしいお顔を見せてください」 「・・・・・・」 「こちらとしても、慰めようがありません」 「べつに、慰めてもらおうなどとは思っておらぬ」 毅然とした口調で取り繕ってはいるものの、ライデンの目には、心の動きをそのままに映したロインズの表情がすでに見えている。そこには、少年の頃の面影が見え隠れしていて、不謹慎とは思いつつも、『かわいい』とすら思ってしまう。 (そのお顔を拝見できるのは、私にだけ与えられた特権だと、少しは自惚れて良いのですよね?) ライデンは王の手を両の手で包み込み、 「私は急ぎません。いつまでもお待ちしています」 彼女の言葉には飾りがない。真っ直ぐな言葉と暖かな笑顔に、氷壁の一部が融かされていくのを感じる。 彼女は続けた。 「首飾りは有り難く頂戴いたします。ではお礼・・・・・・と言っては不遜かも知れませんが、一つだけ願いを。私に出来ることがあれば、何なりとおっしゃって下さい」 艶事以外なら、と一言添えて。 ライデンの慈愛に満ちた申し出に、暗い下層から、光の差す階段の中途までふわりとすくい上げられる。 絶対の信頼を置ける存在。その彼女に背中を守られているというのは心地よい。ただ、許されるなら、もう少しだけ贅沢をしたい。ずっと考えていた事がある。 多分、今なら言える。 「ライデン、たまには私の隣を歩け」 「はい?」 聞こえているはずなのに、彼女はわざとらしく聞き返す。 (明らかに私情と思われる「命令」) 改めて言い直しを要求されているのだと分かった。 こういう事には慣れていない。慣れていないが、必要だと言うならば努力はしてみよう。 「ライデン、たまには隣を歩いてくれぬか」 自分の口から出た言葉とは思えない。思わず視線があらぬ方向にさまよう。 ライデンは少し驚いた様だったが、すぐに笑みをこぼした。 努力はすぐに報われた。 「そうですね。今日の様な休日とか、見咎められない場なら。ご所望の通りに」 そう言って、彼女はすっとロインズの頭に手を伸ばし、しなやかな髪をさわさわと優しく撫でた。まるで母親が「よくできました」と子供にする様に。 さすがに気恥ずかしくて、まともにライデンの顔を見られない。 王は背を向けて外套を目深に被る。今日ほど覆面が有り難いと思ったことはない。 苛立ちはとうに消え、心は暖かい気持ちで満たされている。 もう取り戻すことができないとあきらめていた存在。それが今此処に、すぐ隣に、以前より身近に戻ってきた。この先、自分の決意さえ揺らがなければ、二度と失うことはないだろう。 再び厩に歩みを進めながら、ロインズは考える。 今日のことは良い教訓になった。 まだ、時間的猶予は与えられている。焦る必要はない。踏み外した段数の分、また登ればいい。 彼は密かに期待していた。 もしかするとこの先の努力次第で、頼めば甘い口づけの一つでも、貰えるようになるかもしれない・・・・・・。 休日はあと半日残っている。貴重な時間を、有意義に過ごしたい。 おまけ 「すまなかった。もう少しでお前に怪我をさせる所だった」 ロインズは愛馬の額を優しく撫でる。 背中にちくりと痛みを感じて、恐る恐る振り返ると、側近が静かに笑みを浮かべていた。笑みといっても、これは微塵も暖かくない。 「ロインズ様。愛馬には素直に謝罪の言葉が紡げるのですね。では、私は馬以下ということで」 「・・・・・・」(そうきたか) 「この後の行程は、先行いたします。ついてきて下さい」 ライデンはひらりと軍馬に騎乗し、あっという間に走り去ってしまった。 一瞬のうちに、また数段、階段を踏み外した様だ。 一進一退。道のりはまだ遠い。 |